あれからもうはや五年・・・
 本文は、'92年の名古屋市役所ヨット部創立20周年記念誌への寄稿のつもりだったのですが、数行書いただけでマァそのうちに、と思っている間に記念パーティーの日がきてそのままになってしまいました。
 したがって、いささか古い話ではありますが、美州仲間全員にとって忘れることのできない辛い経験で、今でも台風シーズンになるとあの日の記憶がよみがえります。



 

平成2年9月19日[水]
 大型で強い台風19号が東海地方直撃のおそれありということで,朝5時頃から常滑港へ.夜が明けたばかりの港内は穏やかで,O.Y.C.(鬼崎ヨットクラブ)所属の20数艇はまだ朝寝中という感じでした.嵐の前の静けさ・・・
 森さんとロープやアンカーの点検,強化をして,「腹へった〜,朝メシ食って仕事行こ〜」と,7時過ぎ引き上げました.

・・・台風19号はそのまま北上を続け

 夜になり10時を過ぎてから,ベランダに強い雨がたたきつけ,ガラス窓は風圧でふくらみ(マンションには雨戸というものがないっ),吊り下げのエアコン室外機が揺れるほどになりました.まだ起きていた愚息-1は,「すっごいナ〜,ジュン君にも台風見せてヤロ」と,寝ている愚息-2を起こそうとします.さらに「アッ 体育館の電気がついてる.(小学校が近辺の緊急非難場所) 誰か来てるかなぁ,ボクも行きたいナ〜」

---アホかぁ, 兄弟共に学校が大好きです.勉強は嫌いですが・・・血は争えず.
 ウ〜ン半端じゃないナァ,この台風は.だけど,あとは美州にがんばってもらうよりしかたがない,ということで日付が変わってしばらくして寝ました.ZZZ ZZZ - - -
・・・その頃常滑港では,・・・

9月20日[木]
 午前3時頃,「森さんから電話」とたたき起こされて,「美州が流されたらしい,すぐ来てくれ」で,常滑へ急行.雨はやんで,風はかなり弱くなっていました.
 産業道路よりも安全,と考えて走ろうとした知多中央道は入り口で閉鎖されていたので,やむなく産業道路へ戻ったのですが,別に異常なし.
 ところが,新舞子からの交通信号は全部消え,あっち向いてホイの信号も,という有り様でした.が,走っている車なんか一台も見なかったので何の不安もなくスイスイで4時前,常滑へ.
 常滑港では,25フィート級の4,5杯だけが波に翻弄されていて,「アレッ他のは!?
 見物人たちの「アチラへ流された」という声を聞いて,港の北東側を見ると,たしかに,車のライトが交錯しています.すぐにそちらへ移動して,そこで見たサーチライト代わりの車数台分のヘッドライトに浮かんだ光景は,

・・・我が目を疑う,とはこういうコト?

 岸壁に吹き寄せられた艇に無傷のものはなく,海面からは何本かのマストが突き出て(つまり,沈んでいる),その沈艇や橋にひっかかったまま浸水して沈みかけている艇や,あるいはマストをへし折って橋の下を突き抜け,そのまま川を逆上った艇もあるという惨状でした.
 そしてその艇群のなかで我が美州は,と探すとすぐに見つかりましたが,バウ(船首部)はもぎ取られて大きな穴があき,パルピット(船首,船尾部の手すり)もライフライン(デッキ外周の手すりロープ)もグチャグチャ,フォアステイ(船首部マスト支持索)を失ったマストは後ろに倒れ,スターン(船尾部)から突き出たマストトップが他艇のキャビン窓を突きさしているという無惨な姿.

 ともかく,岸壁から他の艇伝いにホイホイと美州まで乗り移り,バウの穴を応急的にふさぐために毛布を丸めて押し込みました.(はじめはタオル数枚でやろうとしたのですが,穴が大きすぎて役に立つわけありません.見ただけですぐわかるはずなのですが.こんな時冷静でおれるのは凡人じゃぁない.)
 また,そのときキャビンの天井と壁の継ぎ目からもヘッドライトの光が入っていました.つまり,裂け目,それもかなり大きな.
 キャビンから出てくると,お隣のくし刺し艇から,「美州さん,離してもらえませんか」と,困ったような声がかかってきました.---だけどネェ串ダンゴや串カツじゃあるまいし,そう簡単には〜・・・
 なんとか両艇を引き離してから,森さんの「仲間に連絡を」の言葉で,「ア,そうだ」と,公衆電話を探して常滑駅まで走りました.これも落ち着いてあたりをよく見回せばすぐ近くに電話ボックスがあったのですが.明るくなってわかって「な〜んや,アッホらし」.まぁ,そんなもんでしょう.

電話に対する各人の応答
  深谷氏=可.
  西田氏=良.(すぐ電話にでたから)

二人とも「アッ,ウンウン,ワカッタ」という感じのまぁノーマルな受け答え.
  水野氏=文句ナシの優.
連絡を待ち構えていたような様子で,「エッ美州はまだ浮いてるっ!? ウン,よかった」
  小島氏=採点不能.
まったく応答なし. すぐ近くを台風が通ってもどうもないような大邸宅に住んでいる人は違う.
  森()氏=不可.
眠そうな声で(マァ普段からそうスッキリした顔,声でもありませんが),「アァ,川浪サン?」と言っただけでガチャッ.「ヤロー,寝ぼけやがって」と,もぅ一度電話すると「ウチに来た思ってヨ〜玄関に行った」だって.--- アホッ
電話ボックスを出ると,空はもう薄明るく・・・「アァ夜が明けた〜」

 港へ戻ると風もおさまって,からんだ他の艇や漁船からの引き離しや橋の下からの脱出を図るグループ,あるいは艇からの排水,艇体の損傷を調べる人など,かなりの人数で騒がしくなっていました.

 この時,やけくそ気味にバケツで艇から水をくみ出す若い男性と岸でそれを見つめていた女性(彼女か奥さん?)との目があって,男性は何も言わず二,三度うなずき女性は涙ぐんでいるのを目撃しましたが,その光景が今でも印象に残っています.
 夜が完全に明けると空は台風一過のいい天気になって,美州の仲間もそのうち一人,二人と集まってきて,「参ったナ〜」と,ガックリ.
 「水野さんは(道路整備課なので)台風の後処理で本職が大変だろ,すぐには無理だろぅナァ」と話していると,来た来た,チャンと来た.「なんて言ってきた?」の問いに,「仕事の代わりは誰かいるけど,美州を救えるのはオレしかおらん」
---サッスガー,これぞ究極の模範回答.ン,こっちが本職?
 そして,美州グループのメンバー全員が平日にもかかわらず仕事を他人に押し付け,あるいは放り出してこの美州の非常事態に駆けつけ,昼前後には七名勢揃いしました.

 午後から,大型クレーン車とダイバーが到着して,沈没・大破艇の引き揚げ作業が始まりました.岸壁前の駐車場はさながらヨットの墓場.

 ウチでは,「お父チャン,美州を見に行ったままどうなったんだろぅ」と,愚妻が森さんチへ電話すると,その頃まだお元気だった森さんのお父上がでて,「美州はバンソウコーだらけらしいよ」.---イャ〜,キズは深く瀕死の重傷ですヨ.
 夕方になって,ヨット13杯と沈没・転覆した漁船5隻の最後に"美州"が吊り上げられ揚陸された時は引き揚げ作業に当たっていたO.Y.C.メンバーの間から一斉に拍手が起こりました.

 帰宅すると妻の実家から電話がかかってきました.「台風で庭木が倒れたから何とかして」,「エッ 木? 2,3本?」.
 アホらし〜と思いながらも「ハイハイ,便利屋ケンチャンが明日にでも伺います.」

・・・ア〜ァ長い一日だったなぁ,疲れた〜

中日新聞'94/10/03 夕刊よりスクラップ  
 翌朝には,生みの親からも電話で,「台風,ひどかったんだってネ〜雨戸閉めて寝てたから全然知らなかった,あんたのトコはどう?」 ---長生きする,まったく.
 津の造船所で建造中の15万トン貨物船二隻が流され近くの海岸に揃って乗り上げて話題になった,'94/9/29台風26号の時にもオバアチャンは夜遅く,いつもののんびりした声で「台風,ど〜お?」と電話をかけてきて,ソファでウトウトしていたボクは,「オッ,森さんから電話」と,とび起きました.たまらんナ〜

 昭和34年の伊勢湾台風以来というこの'90台風19号が四日市市付近通過の最接近時,常滑港すぐ近くの消防署では,瞬間最大風速40mを記録したそうです.
 O.Y.C.のベテラン諸氏でも予測できなかったのだからしかたがないとは思いますが,結局,120cmx120cmx25cm(=約700kg)のコンクリートブロック沈錘の一点振り回し方式では広い常滑港ではほとんど役に立たず,30フィートクラスの艇はもちこたえることができなくて走描の状態となって,艇どうしで衝突したり岸壁にたたきつけられたのでしょう.
 25杯中7杯が沈み大破も多数(うち8杯は約2ケ月後,現地で重機による破砕処分)という大損害でしたが,市役所ヨット部となじみの深い O.Y.C.所属艇3杯の被害状況については,

 ルナ W
横っ腹に大穴があいて沈没.
素直に沈んだため,それ以外の損傷はそれほどでもなく,1年後にカムバック.
 小町 V
他艇や漁船に思いっきり体当たりしたうえ,橋の下に突っ込んで重傷.
長い間,鬼崎に上架,放置されてこのまま朽ち果てるかと思われましたが,2年後しぶとくカムバック.
なお,市役所ヨット部員がクルーザー修行でお世話になった小町Uはかろうじて沈錘一個で持ちこたえ無事.
常滑港に着いてすぐ目にはいった,波に翻弄されながら頑張っている小町Uの姿が非常に印象的でした.
 グッドタイミングU
スターン部を大きくもぎ取られて,沈没.
見るからに無惨な姿で再起不能,廃艇 ・・・合掌


 記:Oct.-1995