No.20(No.82号) 2006/12/26 (Y.K.)   

『 部報は家族の皆さんにも回覧して、部活動の理解と協力を 』   

 今年もいよいよ終わろうとしています。毎回この時期の部報では、時の過ぎる速さに驚くことをよく書くのですが、やはり速い。付けっぱなしになっているTVを横目で見ていると、 先週の番組が、もう今週流れていると驚き、1週間が3日くらいと思えることがある。よく考えてみれば、確かに7日あったが、途中の曜日の記憶が抜け落ちているのだろう。 その内、昨日食べたものが思い出せなくなったり、トイレ後にズボンのチャックを上げ忘れたり、否、チャックを下げることすら忘れることになるかも知れない。「脳トレ」を始めなけ ればと思うこの頃ですが、それもすぐに忘れてしまいます。「忘年会のやり過ぎか?」という陰の声が聞こえてきそうです。
 相変わらず長い編集後記や付録には、「世界の日本人ジョーク集」の話や、話題の映画『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』についてです。 それではまず活動報告から。

【活動報告(平成18年10月〜12月)】
《ヨット部 10月例会》
開催日時:平成18年10月10日(火)
開催場所:西庁舎11階会議室
出席者:西田、水野、川浪、吉岡、有馬、小島(二次会から鈴木、八木)
概要:主な議題は以下のとおり。
@ 伊勢湾クルージングについて
参加者の確認、宿の予約状況、牡蠣の生育状況の確認など
A シーズンオフ艇整備について
先回の船台整備時に行った項目以外に、当面整備項目がないので、中止。
工具箱が古くなったので、大型のものに取り替える。

《伊勢湾クルージング》
  開催日時:平成18年11月2日(木)〜4日(土)
開催場所:伊勢湾及び鳥羽浦村「海香」周辺
参加者:(2日〜)西田、水野、川浪、鈴木、小島、(3日〜)加藤、吉岡、松田夫妻、八木
概要:
例年通り鳥羽へのクルージングが行われた。時期はカキの生育に合わせて少し遅くした。11月ということで風や波など天候に若干の心配はあったが、全体を通して、穏やかな航海となった。ここ2,3年カキの成育が悪く、カキが食べられないこともあったが今年は何とか間に合った。
 出港前日からの準備と前夜祭も十分行い、3日朝8時、鳥羽に向け出港。やや風が弱く、セーリングは十分できなかったが、ほぼ予定通り、正午ごろに鳥羽の入口、桃取水道を通過した。桃取水道の島陰で、昼食とした。ここでトラブル発生。アンカーリングしたら、アンカー(錨)が海底の何かに引っかかり、抜けなくなってしまった。やっとの思いで引き上げたら、捨てられた蛸壺やロープ、網などが絡みついていた。この辺は漁場としていいところなので、逆に海底にはいろいろなものが捨てられていることもあるようだ。蛸壺に、もしかしたら蛸がいないかと思い、中を見たが残念ながら「留守」だった。
 鳥羽で松田夫妻を降ろし、目的地の浦村の「海香」に向かった。連休のせいか、釣り客が多数いて、宿も満室状態だった。料理は相変わらず、テーブルに載らないくらいあり、船盛りの刺身もイセエビ、アワビなどふんだんにあったが、一部の料理が冷えていて、ややがっかり。(忙しいのが理由だろうが、実は予算を下げたせいもあったかも) それでもカキを含め海の幸を十分堪能できた。穏やかな航海だったため、やや飲み過ぎ気味で、宴会では高いビールがあまり売れなかった。
 翌日も、天気は良く、11月にしては穏やかな航海ができた。前日の航海中から「西田画伯」は絵筆を離さず、かなりの枚数を画き上げたようである。
 西田さんを帰路の途中の鳥羽で降ろし、一路、常滑鬼崎に向かった。セントレアに降りる飛行機に沿って船を進め、セントレア沖で、余った食材は適当に組み合わせた「創作料理」で処分した。穏やかな航海であるからできることで、海が荒れていたらキャビンの中は包丁が飛び回る危険な状態で、キッチンの前で踏ん張ることさえできないことも。
 初めての八木嬢には、クルージングがこんな甘いものだと思ってもらっては困るけど、苦しいことばかりでなく楽しいことも体験できることは、それはそれでラッキーなことと許してしまう優しいオジサンたちばかりなのです。
 予定通り、無事鬼崎に帰港して、今季の伊勢湾クルージングを終えた。

《ヨット部 11月例会》
    開催日時:平成18年11月14日(火)
開催場所:西庁舎11階会議室
出席者:川浪、吉岡、加藤、有馬、知田、小島(鈴木、第2会場から)
概要:主な議題は以下のとおり。
@伊勢湾クルージングの反省
A工具箱の取替えの報告

《ヨット部 12月例会》
     開催日時:平成18年12月12日(火)
開催場所:西庁舎11階会議室
出席者:西田、水野、川浪、吉岡、有馬、知田、佐藤
概要:主な議題は以下のとおり。
@総会について
  日程は部長の都合に合わせて、別途調整。
  退会者への記念品は、伝統どおり舵輪としたい。
A例会のあり方について
  毎月の例会については、連絡調整など一定の機能を果たしているが、マンネリ化しているので原点に戻って、勉強会的機能も充実させる方向で見直すこととする。
B協会会員登録について
 今年度登録分の会員証がいまだ届いていない。協会本部の対応に疑問を感じる。

【連絡事項】
  《今後の活動予定》
1月 9日(火) 例会 1月下旬か2月上旬 総会及び退会者送別会
3月13日(火) 例会


【編集後記】  〜相変わらず長いよ〜
 年間3回の部報編集もすぐに締め切りが近づき、大変です。ネタの提供や寄稿などをお願いします。
 11月はやたら出張が多く、福岡、東京、横浜、京都とそれぞれ仕事の中身も日程もハードだったが、それにも増して夜も大変だった。どこに行っても、旧知の人がいて、久しぶりだからといってついつい夜が長くなってしまう。長年、他都市の人とのネットワークを大切にしてきたので、仕事の面でも教えてもらうことが多く、いろいろな場面で旧交を温める機会も多い。
 出張の往復の新幹線の中での過ごし方も様々である。周りを見ていると、パソコンで仕事をしている人(そこまでしなければならないか?)、同じパソコンでもDVDで映画を見ている人、一番多いのが寝ている人、飲んでいる人も(朝から飲むのは観光客で、仕事の人は復路で眠り薬程度?)、新聞雑誌本などを読む人。実に様々である。中には、デッキに立ち携帯電話でずっと仕事の指示をしている人もいる(この人には指定席は要らないかも)。車中で読む本は読みやすいものがいい(難しい本は睡眠薬用)。
 今回読んだものの一番は、『世界の日本人ジョーク集』(中公新書ラクレ:早坂 隆 著)だった。イギリスの哲学者フランシス・ベーコンの『学問の進歩』(岩波文庫)には「冗談は、しばしば真実を伝える手段として役立つ」と記されているらしい。世界から日本や日本人がどのように見られているか、ジョークの中に意外な真実があるかも知れない。紹介されている数多くのジョークの内容は、ハイテク国家、お金持ちの国、勤勉な人々(会社人間、カロウシ)、日本人の集団行動、神秘の国など、誤解曲解もあるが意外な真実などもある。読んでいて思わず、「そうそう」とうなずくことも。世界のどこかで流布されているものなので、いくつか不許可転載してみる。

○不良品
 あるアメリカの自動車会社が、ロシアと日本の部品工場に以下のような仕事の発注をした。
  「不良品は1000個につき1つとすること」
 数日後、ロシアの工場からメールが届いた。
「不良品を1000個に1つというのは、大変困難です。期日にどうしても間に合いません。納期の延期をお願いします」
 数日後、日本の工場からもメールが届いた。それにはこう書かれていた。
 「納期に向けて作業は順調に進んでおります。ただ、不良品の設計図が届いておりません、早急に送付してください」
 (さすが日本の技術力、品質管理はすごい。しかも発注では不良品を出す確率を示しているので、できればゼロでいいのだが、わざわざ注文どおりの不良品を作ってしまおうとする生真面目さもジョークに含まれている。)

○四段階
 新製品が世に流通するまでには、全部で四つの段階がある。
 まず、アメリカの企業が新製品を開発する。
 次に、ロシア人が、「自分たちは同じものを、もう既に30年前に考え出していた」と主張する。
  そして、日本人がアメリカ製以上のクオリティのものを作り、輸出し始める。
 最後に、中国人が日本製のものに似せた偽物を造る。

○意見の一致
 マルクスとケインズがあの世で出会い、そして激しい議論を始めた。
 相反する思想を持った二人、やはり意見は合わなかったが、たった一つだけ結論の一致を見た話題が合った。
 それは、「自分の理想を体現した国家はどこだろうか?」という問いであった。二人とも、「日本」と答えたのである。
(著者の解説によれば「日本を『歴史上、唯一の成功した社会主義国家』といわれている。
終身雇用制、巨大官僚機構、各分野にわたる細かな規制、産業の保護や育成を目的とした政府の市場介入、『一億層中流階級』といった国民意識など、日本は実は社会主義の理想を体現した国家なのだという皮肉である。」)

  船に関するジョークを紹介すると、
○早く飛び込め!
 ある豪華客船が航海の最中に沈みだした。船長は乗客たちに速やかに船から脱出して海に飛び込むように、指示しなければならなかった。
 船長は、それぞれの外国人乗客にこう言った。
 アメリカ人には、「飛び込めばあなたは英雄ですよ」
 イギリス人には、「飛び込めばあなたは紳士です」
 ドイツ人には、「飛び込むのがこの船の規則となっています」
 イタリア人には、「飛び込むと女性にもてます」
 フランス人には、「飛び込まないでください」
 日本人には、「みんな飛び込んでいますよ」
   (日本人が集団主義なのをよく表している。)

○おかしな世の中
 おかしな世の中になったものだ。
 世界一のラッパーが白人で、  (註:エミネム)
 世界一のゴルファーが黒人で、 (註:タイガー・ウッズ)
 世界一のバスケットプレイヤーが中国人で、 (註:姚明 Yao Ming)
 スイスがアメリカズカップで優勝する。  (註:海なし国家が世界一のヨットレースで優勝)
 政治の世界では、日本がアメリカを助け、フランスがアメリカを傲慢だと非難し、ドイツが戦争に反対する。本当におかしな世の中になったものだ。
 (註:イラク戦争の時のことを、第二次世界大戦当時の状況と対比したもの)

 最後はわさびが特に効いた、とっておきのジョークです。
○付かない切手
 問い:小泉首相の肖像を印刷した切手が、封筒に付かないと苦情が殺到。なぜか?
 答え:肖像画のほうに唾を付けてしまうから。

 少し水増しの編集後記になりました。笑って許して。見通し暗い中、これくらいの笑いも必要です。笑門来福。そして、皆さん良いお年をお迎えください。 (YK)


    <付録>
  硫黄島の話題に寄せて  
小島克生    
 日米双方の視点から見た太平洋戦争での硫黄島の攻防が映画化された。しかも同じ監督クリント・イーストウッドによって描かれた。『父親たちの星条旗』、『硫黄島からの手紙』の2部作を早速、映画好きの我が座敷豚殿と観に行った。さすがスティーブン・スピルバーグのCG画像で、小島の周りの海面を埋め尽くす艦船、上陸部隊6万の兵を含む16万人余で攻め込むシーンなど、圧倒的な迫力で迫ってきた。
 日本側守備隊は二万人余の兵士で、飛行場はあるものの、まともな飛行機はなく、本土からの支援もほとんどない状態で、逃げ場の無い、ただただ玉砕を待つのみという状態だった。そのため、米軍の指揮官は「5日で落ちる」と豪語していた。昭和20年(1945)2月19日、ほとんど無抵抗に米軍が上陸を果たせたのは、まず戦艦からの一斉艦砲射撃、航空機による爆撃などで、島自体が変形するほどの攻撃の後だったためだと米軍側はだれも疑わなかった。
 しかし、日本軍の常套戦術だった敵の上陸時に攻撃して食い止める「水際作戦」を採らず、全島に大規模な地下要塞を構築して徹底的な持久戦に持ち込む作戦を採ったからであった。その総指揮官であった栗林忠道陸軍中将は米国留学の経験があり、米軍の力を熟知しており、また硫黄島の重要性や闇雲な玉砕の無意味なことも承知していた。持久戦で一日でも長く米軍を釘付けにし、島の飛行場を使わせないことが、B−29による本土爆撃を加速させないことになると兵士に説いた。

 硫黄島は面積約22平方キロ(天白区くらい)の小島だが、戦前からの日本の領土であり、初めて固有の領土に米軍の上陸を受けることになった。昭和19年6月、マリアナ諸島のテニアン、サイパン、グアムなど占領した米軍は、ボーイングB−29爆撃機を大量に配置し、その航続距離から日本本土のほとんどを爆撃できるようになった(マリアナ諸島から2900q圏内)。しかし、B−29の不時着基地として、またB−29を護衛する戦闘機P−51の航続距離はその半分ほどなので、マリアナ諸島と日本本土のほぼ中間点にある小笠原諸島硫黄島(東京の南1,250km)は太平洋戦争における、文字通り重要な位置づけとなっていた。島の形はちょうど魚のアンコウのような形で、胴から頭の部分にかけて高地となり、尻尾の先に「擂鉢山(すりばちやま)」がもっこりとあり、ここに砲台陣地を構築していた。島の南端にある擂鉢山と司令部がある北部高地との間の南海岸に米軍が押し寄せた。しかし、圧倒的な物量の差がありながら、米軍側の死傷者数28,686名(内戦死者6,821名)、日本側は21,152名(内戦死者20,129名)で、しかも終結までに5日どころか36日間かかってしまった。

 全島を要塞化して徹底抗戦を指揮した栗林陸軍中将は旧制中学から陸軍士官学校に進んだため、陸軍幼年学校、士官学校、大学校といったエリートコースではなかった。そのため、留学先もドイツでなく米国だったようだ。米国でその国力を目の当たりにした栗林は米国との戦争を避けるべきだとの考えを持っていたようだ。そのためか、陸軍の中でも閑職を回り、最後は硫黄島守備隊司令官として赴任した。米国留学中に当時まだ3歳で字が読めない長男太郎に米国での暮らしや珍しいものをイラストで描き、解説を添えた手紙を47通も送っていた。家族への愛情をひしひしと感じる暖かい手紙ばかりだった。

 当初師団司令部を硫黄島でなく父島に置くとされていたが、師団長となった栗林は小笠原諸島の中で硫黄島には最良の飛行場があり、攻撃目標になるため、直接指揮がとれる硫黄島に設置したという。地下15〜20mに地下陣地を結ぶ地下道を縦横無尽に構築する作業は困難を極めた。つるはしやスコップだけで、しかも少し掘ると硫黄ガスが立ち込める。川がないので水不足で、制空権もないので本土からの食料や物資の補給も途絶え気味という過酷な状況であった。米軍の上陸までに、予定の4割ほどしか完成できなかったが、それでも総延長18kmに及ぶといわれた。(陸軍伝統の水際作戦ではなく、全島地下壕を構築して持久戦で、米軍上陸後73日間持ちこたえた攻防が、硫黄島の戦いの以前にあった。昭和19年9月15日、パラオ諸島のペリリュー島に米軍約42,000が押し寄せた。それに対する日本軍守備隊は約10,000名だったという)

 この硫黄島には、ロサンゼルスオリンピック(1932年)の馬術大障害競技で、初めて金メダルを獲得した西竹一大佐(男爵だったので、「バロン西」と呼ばれていた)も戦車連隊を指揮していたが戦死した。米軍が西の才能を惜しんで投降勧告をしたというが、個人向けの勧告は無かったといわれている。この他に、ロス五輪水泳100m自由形で銀メダルを獲得した河石達吾中尉もいた。

 映画『硫黄島からの手紙』では、栗林を渡辺謙が演じ、ただのパン屋の主人だった兵士西郷を二宮和也(ジャニーズ事務所、「嵐」のメンバー)が好演した。それぞれが家族へあてた手紙を書くシーンが多くあり、届かぬかもしれないのに戦火の中でも思い込めて書き残しておきたい、届いてほしいという一念なのであろう。事実、遺留品の中に届かなかった手紙が多くあり、戦後何十年後に遺族に届けられたという話はよく聞く。
 3月16日の最後の総攻撃の前に、大本営に最後の電報を送った。内容は「兵士たちは徒手空拳でよく戦った」であったが、武器も食料も何も無く、無駄に死んだように受けとられるとして、大本営はそれを改ざんして新聞に発表した。さらに電文の最後につけた辞世の句も改ざんした。「国の為重きつとめを果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」を新聞発表で「散るぞ口惜し」と書き換えられていた。
 この映画は当然のことだが、日本語のせりふがほとんどで、米国での上映時には吹き替え無しらしいが、英語の字幕で伝わるのか心配になるけど。

 映画『父親たちの星条旗』は、硫黄島に上陸して5日目、激闘の末、擂鉢山の頂上に星条旗を掲げたことになった6名の兵士の物語である。硫黄島の戦いの勝利宣言のような星条旗掲揚の報道写真は、ピューリツアー賞を受賞した有名なものだが、実は擂鉢山攻略直後に掲揚されたものではなく、後で別の星条旗に替えられた時の「やらせ」写真で、兵士もそこに居合わせただけだったという。そのため、写真の兵士のうちの帰還した3名が、英雄として祭り上げられ、戦費調達のための国債PRキャンペーンに狩り出されることで、ますます違和感と罪悪感に悩む姿を描いている。あの戦いの中で、ほかに多くの兵が生死を賭け、勇敢に戦ったのに、自分たちはただ旗を立てただけで英雄になって良いのか、米国内で長引く戦争に嫌気がさしているムードを払拭するためだけに必要だった英雄で、本当は誰でもよかったのではないか。あの戦争にそもそも英雄がいたのか?そんな苦悩を戦後までずっと引きずってきた「英雄」に対して、その息子が「父親たちにとってあの星条旗は一体何だったのか」を問う物語であった。
 戦争での偽善や欺瞞をイーストウッド監督は鋭く私たちに突きつけている。ダーティ・ハリー刑事の44マグナムのように。

 硫黄島関係で、映画の公開初日に放映されたTVドラマ『硫黄島・戦場の郵便配達』(フジテレビ系列:12月9日放映)は、陸軍の栗林とは別に海軍の司令官だった市村利之助少将と、郵便などの物資を運んだ木更津航空隊の機長根本正良少尉の物語だった。ドラマの中では、対空砲火や敵戦闘機を必死にかいくぐって運んだ輸送物資には、機関銃のはずが竹槍だったという場面もあった。しかし、家族らとの毎回交わす手紙が兵士たちを勇気づけ、またいとおしくかけがえのないものだったに違いない。極限状態の戦場ではそれが毎回遺書になっているからだろう。
 栗林も41通もの手紙を書いている。長女からの手紙の誤字を丁寧に直したり、台所の隙間の処理をやり残したことを悔やみ、長男にやり方を図示したりした。
 市村は海軍航空隊出身だが、負傷して桜の杖を突きながら、飛行機の無い(本土防衛にと全機返還)硫黄島での陸戦を指揮した。最後の突撃の前に、市村は「ルーズベルトニ与フル書」を日英文でしたためた。内容はこの戦争に至った世界情勢や日本の立場などの意見を堂々と述べ、米国の世界制覇をけん制し、忠告したものだった。敗れた一将校の、当時の米国大統領にあてた手紙は、現在米国海軍兵学校に保管されている。この手紙の内容は昭和20年7月11日に米国内各新聞に掲載された。

 実はもう一つ硫黄島の攻防を映画化した作品がある。あの西部劇の大御所ジョン・ウェイン主演の『硫黄島の砂』(1949年)である。彼は自ら「生涯最大の役」と語った作品で、海兵隊の鬼軍曹役で、若き部下たちと対立しながらも鍛え上げ硫黄島に上陸し、星条旗を擂鉢山の山頂に立てるというストーリーである。戦闘シーンは記録映画を使っているため、CGとは違い生々しいものがあるが、戦闘中にこうした記録映画を撮っている余裕のある敵と日本は戦ったこと自体、身のほど知らずと言うべきかも知れない。この映画でも、最後に家族への手紙が重要な役割を果たしている。

 いずれの作品も戦場からの手紙が重要な役割を果たしている。それは戦場で散った兵士が故国に残した家族にあてた手紙であると同時に、後世に託した手紙でもあるのではないか。それを意識したかどうかは別として。この一連の映画作品は我々に対する手紙(メッセージ)ということであろう。
(参考文献『歴史街道』‘07年1月号)